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自軍の戦列中央が圧倒されつつあるのを見たハンニバルは、両翼のカルタゴ歩兵を前進させ、ローマ軍戦列の両翼を押し込んだ。一方、ローマ軍の右翼騎兵を壊走させたハスドルバル指揮下のスペイン・ガリア騎兵は、直ちに方向を転じ、ヌミディア騎兵と交戦している同盟軍騎兵を挟撃した。戦力的に劣勢となった同盟軍騎兵はほどなく壊走を始めた。カルタゴ騎兵は逃げるローマ兵を追わず、ローマ軍中央の後方へ回り込んだ。 ローマ軍の中央戦列は、ほとんどカルタゴ軍中央を突破しかけていたが、戦列両翼はカルタゴ歩兵が優勢であり、その方面のローマ軍は前進することができなかった。この時点で、ローマ軍中央はV字になりつつあった。そこへ両翼のローマ軍騎兵を壊走させたカルタゴ軍騎兵が後方を攻撃した。後方を付かれたローマ軍はパニック状態に陥って密集したために、中央の兵は押しつぶされて圧死した。前方をスペイン・ケルト歩兵、側面をカルタゴ歩兵、後方をカルタゴ騎兵によって完全に包囲されたローマ軍は、逃げることができずに殲滅されることとなった。 この戦闘でローマ軍はおよそ60,000名の死傷者(大半が戦死)を出した。また、野営地に残されていた10,000名は、カルタゴ軍に降伏し捕虜となった。その日の最高指揮官であるウァロは戦場から逃れたが、一方の指揮官であるパウルスは戦死した。また中央の指揮を任されたセルウィリウスも戦死し、他に約80名の元老院議員が戦死した。当時の元老院は、最大でも300名を超えなかったため、4人に1人以上が死んだことになる。一方のカルタゴ軍の損害は6,000名ほどであり、その大半は戦列中央のスペイン・ケルト兵だった。このように、この戦闘におけるローマ側の人的損失は甚大なものであり、ローマ市民および元老院に大きな衝撃をもたらした。 この戦いの後、ローマはハンニバルとの正面決戦を避け、持久戦に持ち込むことにした。ファビウス・マクシムス、マルクス・クラウディウス・マルケッルスの両名を執政官とし、攻撃対象をシチリア、スペインなどのカルタゴ周辺へと変更し、外からの切り崩しを狙った。さらに、優勢な海軍力を生かしてカルタゴ海軍を脅かし、カルタゴ本国からのハンニバルへの補給を断った。そして、戦力の再編とともに、カンナエの敗戦の原因といえる騎兵の育成に努め、これが後のザマの戦いの勝利に結びつくことになった。もっとも、騎兵の調達は相変わらず困難であることに変わりなく、同盟国の騎馬やヌミディア騎兵に頼ることが多かった。 一方のハンニバルは、この勝利によってローマ同盟都市が離反することを期待したが、同盟都市の結束は依然として固く、十分な成果は上がらなかった。敵地での補給に苦しむハンニバルは、ローマを攻めずに肥沃でカルタゴ本国とも連絡をつけやすいイタリア南部(マグナ・グラエキア)へ主攻を切り替えた。 この戦から、特に包囲戦の有効性が強調されるが、ローマの敗因は、包囲されたことによりパニック状態になり、組織的で有効な資産運用 ができなかったことにある。もし、ローマ歩兵が包囲側の攻撃に耐え、そのまま前進し包囲網を突破し左右に展開出来たならば、逆に寡少なカルタゴ軍を包囲できたことになり、全く違った結果となっていたと考えられる。 後にこの戦いは包囲殲滅戦のお手本とされ、ドイツ帝国陸軍のシュリーフェン・プランや、日露戦争の奉天会戦の日本軍もこれを参考にした。また、現代の教書でもこの戦いは重要視されている。 ティキヌスの戦い(Battle of Ticinus)は、紀元前218年11月、イタリア半島北部のティキヌス川(現ティチーノ川)付近で行われた、第二次ポエニ戦争における最初の重要な戦い。ハンニバル率いるカルタゴ軍とプブリウス・コルネリウス・スキピオ率いる共和政ローマ軍が交戦し、カルタゴ軍が勝利した。 目次 [非表示] 1 背景 2 戦闘経過 3 結果 4 参考書籍 [編集] 背景 紀元前219年、カルタゴの将軍ハンニバルのサグントゥム(現:サグント)攻撃をきっかけに第二次ポエニ戦争が勃発した。紀元前218年5月、ハンニバルはイタリア本土へ侵攻するために北上を開始。ローマの元老院は執政官プブリウス・コルネリウス・スキピオに2個軍団を与え、ハンニバルの前進を阻止するために海路でマッシリア(現:マルセイユ)へ派遣した。マッシリアに到着したスキピオは、偵察によってカルタゴ軍のローヌ川渡河を察知し、軍を率いてこれを追った。しかし、ローマ軍がローヌ川に到着した時には、カルタゴ軍は数日前に渡河を完了していた。スキピオは兄のグナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウスに軍を預け、自身は本土でハンニバルを迎え撃つためイタリアへ帰還した。 9月、ハンニバルはアルプス山脈を越えてガリア・キサルピナに到着、現地のガリア人を徴募し、アルプス越えによって生じた損失を補填しようとした。しかし、徴募は予想以上にはかどらず、ハンニバルはローマ軍を撃破して力を誇示しなければ、現地部族を味方に引き入れることはできないと判断した。ローマに帰還したスキピオは、新たに動員した2個軍団を率いて北上、ハンニバルも敵を求めて南下していた。ティキヌス川(現:ティチーノ川)付近で両軍は接近し、互いに野営地を築いた。ハンニバルは日経225 を率いて偵察に向かい、一方のスキピオもウェリテス(軽装歩兵)と騎兵を率いて偵察に出ていた。偶然会敵した両軍は、そのまま戦闘に突入した。 この戦闘における両軍の戦力の詳細は不明であるが、おそらくカルタゴ軍は騎兵の全力で約6,000名、ローマ軍は騎兵とウェリテス(軽装歩兵)を合わせて約4,000名程度であろうと推測される。ハンニバルは両翼に精強なヌミディア騎兵を置き、FX にガリア・ヒスパニア騎兵を置いた。ローマ側は前面にウェリテスの戦列を並べ、その後方に騎兵を置いた。 カルタゴ軍の騎兵が突撃すると、ローマ軍軽装歩兵はピルム(投げ槍)を投擲した。しかし、カルタゴ軍の前進を阻止できず、逆に突入されて投資信託 は乱れ、またたくまに壊走した。続いてカルタゴ騎兵とローマ騎兵の交戦が始まった。もとより、ローマ軍は数で劣っており、次第に圧倒されだした。両翼のヌミディア騎兵が早々にローマ騎兵両翼を撃破し、ローマ軍中央は包囲されそうになった。さらにスキピオもカルタゴ騎兵によって負傷させられたため、ローマ軍は野営地まで撤退した。 なお、負傷したスキピオを包囲下から救い出したのは、リグリア人の奴隷という説と、息子プブリウス(後のスキピオ・アフリカヌス)という説が存在する。ただし、後者はスキピオ・アフリカヌスの偉大さを顕彰するための創作ではないかと考えられている。 この戦いは偵察部隊同士の遭遇戦であり、互いに大きな損害を出したわけではなかった。しかし、ハンニバルのローマに対する初勝利という点で十分な宣伝効果があった。この戦い以降、現地兵の徴募が円滑に進むようになったのである。さらにローマ軍内のガリア兵2,200名が脱走して、カルタゴ軍に合流した。この結果、カルタゴ軍は約40,000名まで増加した。ただし、この時点では全ての現地部族が味方になったわけではなく、ガリア・キサルピナでもポー川以南の部族は依然としてローマを支持していた。彼らを味方にするため、また、最終的勝利に不可欠なローマ同盟諸都市の離反を誘うためにも、ハンニバルはより大きな勝利を挙げる必要があった。それゆえ、彼は積極的に決戦を求め、外国為替証拠金取引 野戦軍の壊滅を狙った。以降のハンニバルの行動は、こうした基本戦略に基づいている。 一方、スキピオは軍をピアチェンツァまで後退させ、その後トレビア川以南まで後退させた。スキピオはカルタゴ軍の戦力を侮れないものと考え、同僚の執政官ティトゥス・センプロニウス・ロングスと合流して、万全の態勢でこれを迎え撃とうとしたのである。両軍はトレビア川を挟んで対峙し、続くトレビアの戦いに臨むこととなった。

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