買い気配(かいけはい)
バエティス川の戦いは、第二次ポエニ戦争中の紀元前211年、イベリア半島のバエティス川(現在のグアダルキビール川)を挟んで行われた戦い。ハスドルバル(ハンニバルの弟)らのカルタゴ軍と、グナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウスとプブリウス・コルネリウス・スキピオが指揮するローマ軍が交戦し、カルタゴ軍が圧勝。ローマ軍は20,000余の兵士が戦死して、スキピオ・カルウス、コルネリウス・スキピオは共に枕を並べて討死した。 メタウルス川の戦いは、紀元前207年にイタリアのメタウルス川で起きた、ローマ軍とカルタゴ軍との戦い。 大スキピオによってカルタヘナを失陥しベクラの戦いでも敗れたカルタゴ軍は、南イタリア(マグナ・グラエキア)にいるハンニバルと合流することで戦況を逆転しようとした。ハンニバルの弟ハスドルバルの指揮するカルタゴ軍はアルプスを越えイタリア半島に侵入した。 一方のローマ軍は兄弟の合流を防ぐため、二個軍団を急派してFX 初心者 させた。 ローマ軍に捕捉されたハスドルバルはメタウルス川を戦場に選んだ。 ハスドルバルは象を投入したが暴れて役に立たなかったため、象を殺して戦闘に突入した。ハスドルバルは当初優勢だったが、執政官ネロは川沿いの狭い地形を利用してカルタゴ軍を包囲し、殲滅した。混乱の中でハスドルバルは戦死した。 ハスドルバルの首は剥製にされ、ハンニバルの陣営に投げ込まれた。この戦いでの敗戦によりカルタゴ勝利の可能性は消え、ハンニバルはイタリア半島の先端に閉じ込められることになった。 この戦争でふたつの勢力は、地中海の西側の覇権をめぐって23年間にわたって争った。 カルタゴは、アフリカ大陸の現チュニジアの場所に位置し、戦闘が始まった頃は地中海を支配する国だった。戦争の結果、ローマ軍が勝利し、ローマはカルタゴに厳しい講和条項と多額の賠償金を課した。第一次ポエニ戦争を出発点として、ローマは60年間にわたって勢力を拡大し、ほぼ全ての地中海海域を支配するにいたる。ローマ軍の勝利は、古代地中海の文明がアフリカに依存する時代から、ヨーロッパ社会に委ねられる時代に変わる転換点となった。 ローマとカルタゴの一連の戦いを、ローマではカルタゴのラテン名にちなんで「ポエニ戦争」と呼ぶ。ポエニ(Punici)は、カルタゴの先祖フェニキア人を意味する Phoenici から派生した。 紀元前3世紀の半ば、ローマの勢力が拡大してきた。内乱や騒乱の数世紀を経て、ローマは全イタリア半島をしっかりと手中に収めた。ローマはラテン同盟やサムニウム人のような全ての敵を征服し、イピロスのピュロスの侵入を撃退した。ローマ人は、自らの先物取引 と軍事力に確信を抱くようになった。 ティレニア海と現チュニジアの領土の一部にあるシチリア海峡を挟んで、カルタゴが既に地中海における商業航路の大部分を統制し、海軍力と商業力を支配していた。アフリカ大陸の現チュニジアの場所に位置するこの都市は、元来はフェニキア人の入植地として生まれたが、北アフリカ沿岸からヨーロッパのイベリア半島までを支配する大国の首都となっていた。カルタゴのハンニバルによる侵攻を含めたローマとの一連の戦争は、もう少しでローマ帝国の誕生を阻むところだった。ローマの勝利は、古代地中海の文明化がアフリカではなくヨーロッパの現代世界に渡された、記念碑的な転換点となった。 紀元前288年、カンパニア出身のイタリア人傭兵部隊であるマメルティニ(マルスの子らの意) en:Mamertines)が、シチリアの北東にあるメッシーナの町を占領した。彼らは男を殺害し、女を妻として連れ去った。 彼らはメッシーナを拠点に国境を荒らし回り、自治都市シラクサにとっても問題となった。シラクサの僭主ヒエロン2世は、紀元前265年にその座につくと、マメルティニと対決しメッシーナを取り戻そうと決断した。 マメルティニはローマとカルタゴの両方に助けを求めた。はじめ先物取引 は、マメルティニ軍がメッシーナの町を本来の所有者から不正に奪ったと考え、助力する意欲がなかった。さらに、ローマは最近エピロスのピュロス王(レギウム,紀元前271年)を破った後に起きた傭兵の暴動を鎮圧したばかりだったので、この紛争に介入することをしぶっていたようだ。このため、嘆願に応えてこの地に軍団を送ったのは、カルタゴの方が早かった。 それを見てローマはカルタゴ勢力がシチリアに広がるとイタリアに近づき過ぎると考えて、それを避けるために、マメルティニと同盟を結んだ。 紀元前264年、ローマの軍団がシチリアに配置され(ローマ軍がイタリア半島の外に出たのはこのときが最初)、渋るシラクサを無理に同盟に参加させた。 その後に間もなく、紛争の主役はローマとカルタゴの対立に代わり、それがシチリアの所有権をめぐる争いにまで発展した。 前述のように第一次ポエニ戦争の発端となったのはカンパニア人傭兵集団マメルティニである。この傭兵集団はメッシーナの政権を不当に奪取し、カルタゴとローマとの間を立ち回り二枚舌外交を行っていた。ローマが、何故このような素性のよくないマメルティニの肩を持ったのかという理由は現在でも歴史家で意見が分かれている。 イタリア内の数多い諸部族を制圧したばかりのローマの国制に軍事を尊び攻撃的な気風が残っていたとするもの。 イタリア半島の多くの同盟市を束ねたばかりのローマは自らの威信を強国カルタゴにも見せる必要があった。 従来からカルタゴと結んでいた不利な不平等条約を力づくで覆す好機とローマが考えた。 イタリア半島を統一して成長はげしい平民階級の多くが従事していた日経225 の利害がカルタゴとの間に生じた。また平民階級の多くはさらなる成長を期待して対外侵略に肯定的だったので、民会の意思に抗う事は元老院でもできなかった。 またはシチリア島をカルタゴに制圧されるとローマの勢力下のイタリア半島南部の安全保障が不確かになるという地政学的な理由。 が挙げられている。 シチリアは丘陵が多い島で、地理的な障害や通信路を保持しにくい地形が多い。それが原因で、第一次ポエニ戦争では陸上戦は重要な役割は担っていない。 陸上行動は小規模な奇襲と軍隊間の小競り合いに限られ、大きな会戦はほとんどなかった。正規軍が最も多用した作戦は、攻城戦と陸上封鎖だった。陸上封鎖の最たる標的は、重要な海港である。というのも、交戦中の両陣営はどちらもシチリアには本拠がなく、本土からの補給と情報交換を続ける必要があったためである。 俯瞰的にはこのような状況だったが、第一次ポエニ戦争の間に、大規模な陸上戦闘が少なくとも2回は行われた。紀元前262年、ローマはアグリジェントの町を攻囲した。この戦闘には執政官2名の軍団を両方(ローマ軍4個軍団)が投入され、終結までに数ヶ月を必要とした。アグリジェントの守備隊はなんとか援軍を求め、ハンノに率いられたカルタゴの救援軍が救出に来た。ローマ軍はシラクサからの補給を遮断され、攻囲中のローマ軍自身が取り囲まれ、包囲網を築かれていることに気付いた。しかし、数回の小競り合いの末、アグリジェントの町は落ち、戦いはローマの勝利に終わった。 この勝利に発奮し、ローマは新たな大規模陸上戦を挑んだ(紀元前255年/256年)が、この度は結果が違った。 何度かの海戦の後で、ローマは早い終戦を願った。このため、カルタゴに講和を押し付けるために、アフリカにあるカルタゴの植民地を侵攻しようと決めた。そして、兵士と機材を運ぶ輸送船と艦隊防御のための戦艦からなる大艦隊を建造した。 カルタゴは阻止しようとしたが、エクノモス岬の戦い(en:Battle of Cape Ecnomus)で敗戦した。 この結果、執政官マルクス・アティリウス・レグルスに率いられたローマ軍がアフリカに上陸し、カルタゴ辺境の侵略を始めた。レグルスは当初は勝利続きで、アディスの戦いにも勝利し、カルタゴに対して講和を強要した。 しかしその条件が大変厳しかったために交渉は失敗し、返答の変わりに、カルタゴはスパルタ人傭兵のクサンティッポス(Xanthippus)を雇って軍隊を再編した。 クサンティッポスはカルタゴの海上の優位性を取り戻し、ローマ軍を本拠から切り離すことに成功して、チュニスの戦いでローマ軍を破ってレグルスを捕らえた。